文学、音楽、映画、猫の写真、スポーツ
by stefanlily
カテゴリ
全体音楽、music
映画、movie
文学、books
野球、Baseball
猫関連、Cats
芸術、Art
猫文学cat's books
Review in English
本のまくらQUIZ
小説(my own works)
文学、books(海外)
未分類
以前の記事
2024年 03月2024年 02月
2024年 01月
more...
フォロー中のブログ
梟通信~ホンの戯言amo il cinema
BLOG BLUES
おいらとJazzと探偵小...
ぐうたら日和
近所のネコ2
お母さんの味を忘れたくないから
☆ねこにはかなわぬ☆
正方形×正方形
ネコは猫でも... (...
ふら~っと
深夜を廻る頃・・・
大佛次郎記念館NEWS
Living Well ...
気まぐれ感想文
光と影をおいかけて
畳ねこ
ねこ旅また旅
ネコと文学と猫ブンガク
猫、ネコ、Neko!! ...
なびかせろ!たてがみ
*ことえりごと~Roma...
フェルタート(R)・オフ...
月猫にっき
猫と文学とねこブンガク
sky blue dro...
砦なき者に花束を
最新のコメント
saheizi様 皮肉で.. |
by stefanlily at 00:00 |
挨拶はわかりますね。ヒロ.. |
by saheizi-inokori at 18:40 |
saheizi様、 面白.. |
by stefanlily at 17:31 |
面白いですね、もっと続け.. |
by saheizi-inokori at 10:08 |
saheizi-ino.. |
by stefanlily at 18:39 |
村上も打ちましたよ^^。 |
by saheizi-inokori at 10:10 |
左平次様 田口投手、心配.. |
by stefanlily at 18:14 |
誰かの不幸は我が身の幸運.. |
by saheizi-inokori at 10:19 |
左平次さま 猫カフェの猫.. |
by stefanlily at 23:52 |
けさNHKで和田投手のイ.. |
by saheizi-inokori at 09:44 |
ご注意 notice
野球川柳、写真、英文記事等は無断転載禁止。 コメント下さった方、有難うございます
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
栗原陵矢最新の記事
栗原が第3捕手に指名…? |
at 2024-03-27 00:35 |
フォークナー、ベルベッツ(ル.. |
at 2024-03-25 00:59 |
栗原、オープン戦第3号ホーム.. |
at 2024-03-23 00:01 |
栗原、オープン戦で第2号ホー.. |
at 2024-03-21 00:26 |
栗原、オープン戦で先制タイム.. |
at 2024-03-20 07:02 |
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
フォークナー短編集(追記)
W・フォークナー 『フォークナー短編集』を借りた。
「 久しぶりに『野生の棕櫚』を読みかえした。(略)
はじめて読んだのはまだ“戦後”の旺盛な頃で、フォークナーもヘミングウェイもあまり訳出されていず、
名声はしきりに伝えられるが過去の仕事ぶりがほとんど読者にはわかっていず、いわば彼らには顔がなかった。
アメリカ文学そのものが、頭をようやく見せはじめた鉱脈といったところであった。
だからこの作品を読んだときの印象はきわめて鮮烈で、活字が一個一個すみずみまで洗練されて配列されているようであった。(略)
チャンドラーだったかハメットだったかをはじめて知ったときの驚愕をジッドは書いたが、ボーヴォワールはサルトルと二人でフォークナーやヘミングウェイやドス・パソスを読んだ若い日の夢中を自伝に書いている。」
「はじめてフランスへ行ったとき、(略)
フランスの作家たちがアメリカ文学に打撃をうけたのかがよくわかったように感じた。」
「 その頃、本屋に行くとアメリカ兵が読みすててバラまいたペイパー・バックがたくさん積まれていた。
(略)シャーウッド・アンダスンはヘミングウェイやフォークナーの師匠にあたる作家で、のちに手ひどいやりかたで弟子にのりこえられ葬られてしまうが、(略)
フォークナーは私の語学力ではよちよち歩きでついていくのが精いっぱいなので、何度か努力したけれど、つらくなってやめた。
ヘミングウェイは長篇はたいくつで読まなかったけれど短篇はよく読み、私なりに味わえる、または味わった、と思って本をとりあげたり、おいたりしたものである。」
「 アメリカの純文学の人物たちはたいてい何らかの形式によって逃避を試みる。(略)
または、逃避によってしか充足できない。(略)
批評家たちのさすところではアメリカの作家たちはいつもインキを新しくしてミシシッピ河畔の浮浪児ハックルベリフィンを描きなおし、
だからこの作品を読んだときの印象はきわめて鮮烈で、活字が一個一個すみずみまで洗練されて配列されているようであった。(略)
チャンドラーだったかハメットだったかをはじめて知ったときの驚愕をジッドは書いたが、ボーヴォワールはサルトルと二人でフォークナーやヘミングウェイやドス・パソスを読んだ若い日の夢中を自伝に書いている。」
「はじめてフランスへ行ったとき、(略)
フランスの作家たちがアメリカ文学に打撃をうけたのかがよくわかったように感じた。」
「 その頃、本屋に行くとアメリカ兵が読みすててバラまいたペイパー・バックがたくさん積まれていた。
(略)シャーウッド・アンダスンはヘミングウェイやフォークナーの師匠にあたる作家で、のちに手ひどいやりかたで弟子にのりこえられ葬られてしまうが、(略)
フォークナーは私の語学力ではよちよち歩きでついていくのが精いっぱいなので、何度か努力したけれど、つらくなってやめた。
ヘミングウェイは長篇はたいくつで読まなかったけれど短篇はよく読み、私なりに味わえる、または味わった、と思って本をとりあげたり、おいたりしたものである。」
「 アメリカの純文学の人物たちはたいてい何らかの形式によって逃避を試みる。(略)
または、逃避によってしか充足できない。(略)
批評家たちのさすところではアメリカの作家たちはいつもインキを新しくしてミシシッピ河畔の浮浪児ハックルベリフィンを描きなおし、
描きつづけているのだそうであるが、(略)」
「 肯定とおなじ密度の否定の意志があり、文脈と人物たちの背後にはほとんど暴力に近いような、沈鬱な激情の顔のあることを感じさせられる。
“情熱”はなければならず、また、あってはならないのでもある。
フォークナーの作品にたちこめる沼の瘴気のようなアトモスフェールだけを吸って中毒した何人かの日本人がきわめて朦朧とした作品を書き、
「 肯定とおなじ密度の否定の意志があり、文脈と人物たちの背後にはほとんど暴力に近いような、沈鬱な激情の顔のあることを感じさせられる。
“情熱”はなければならず、また、あってはならないのでもある。
フォークナーの作品にたちこめる沼の瘴気のようなアトモスフェールだけを吸って中毒した何人かの日本人がきわめて朦朧とした作品を書き、
それらはたちまち褪せて消えてしまったが、(略)
どこを読んでも激情の濃霧につつまれながら明晰でない一行はないのである。(略)
『異邦人』のムルソオや『嘔吐』のロカンタンのある面影を抱いた先駆的人物をこの医学生の停車場の酒場における述懐に読むことができる。」
開高氏の文章は翻訳者の加島祥造氏の解説ともまた違う味わいがある。
この書評だけで一つの文学作品と言っていいくらいだ。
どこを読んでも激情の濃霧につつまれながら明晰でない一行はないのである。(略)
『異邦人』のムルソオや『嘔吐』のロカンタンのある面影を抱いた先駆的人物をこの医学生の停車場の酒場における述懐に読むことができる。」
開高氏の文章は翻訳者の加島祥造氏の解説ともまた違う味わいがある。
この書評だけで一つの文学作品と言っていいくらいだ。
週間新潮2022年2月3日号、北方謙三「十字路が見える」第396回、「文学の香りというやつを求めてみたが」より、抜粋。
「 どれぐらい前か、フォークナーの作品を再読していた。『エミリーに薔薇を』があった。(略)凄絶な短編である。(略)
ただ、ずっと昔に私が読んだ時は、『エミリーの薔薇』というタイトルで、
それ以後、『エミリーに薔薇を』とか『エミリーへの薔薇』などというタイトルが出てきたようだ。(略)
最初に読んだのは、瀧口直太郎訳であった。私はこの訳者で、スタインベックやカポーティを読んだ記憶がある。『エミリーの薔薇』は、かなりの超訳になるだろうと思うが、(略)タイトルとして、原題よりすぐれている、という言い方もできるかもしれない。
南部の屋敷で暮らす、上流階級の女性の、不幸な一生の中で、唯一手にした薔薇。それが描出されているのだ。エミリーへ薔薇を贈るという意味合いだと、鮮烈さは消える。私は、日本で最初に訳したであろう、瀧口直太郎訳のタイトルに、この作品を象徴するような凄さがある、と感じる。」
北方謙三の文も、それだけで香気ある文学作品のようだ。
原文より抜粋。「A Rose for Emily」
「Alive, Miss Emily had been a tradition, a duty, and a care; a sort of hereditary obligation upon the town . . . 」
「Then we noticed that in the second pillow was the indentation of a head. One of us lifted something from it, and leaning forward, that faint and invisible dust dry and acrid in the nostrils, we saw a long strand of iron-gray hair.」
「新潮世界文学」は作家別に編んであるのだが、「集英社ギャラリー『世界の文学』」はなんと、「国別」なのである。
うち、『アメリカ I』はメルヴィル、ポー、ホーソーン、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェイムズ、
『アメリカ II』はフィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、フィリップ・ロス、アメリカ短編集 、『アメリカ III』はソール・ベロー、ボールドウィン、ジョン・バースといった作家陣。
集英社のほうがエンタメ系の出版社だからかなあ。
まあ「ヘミングウェイを読むつもりで他の作家も読んだら、案外面白かった」というのもアリ、だろうしね。
三冊に各作家の写真が掲載されている。ほぼ全員白人なのであるが、ジェームズ・ボールドウィンだけが黒人である。
『アメリカ III』を借りて、真っ先にボールドウィンから読んだ。
フォークナーは白人の立場から黒人のことを書いたが、ミシシッピなどの南部であること、時代が少し前のことであるからか、黒人の置かれた状況もボールドウィンが書くニューヨークとは、違う。
公民権運動に熱心(にならざるを得なかったのだろうが)だったこともあってか、晩年は寡作だったようだ。
最初に読んだのは、瀧口直太郎訳であった。私はこの訳者で、スタインベックやカポーティを読んだ記憶がある。『エミリーの薔薇』は、かなりの超訳になるだろうと思うが、(略)タイトルとして、原題よりすぐれている、という言い方もできるかもしれない。
南部の屋敷で暮らす、上流階級の女性の、不幸な一生の中で、唯一手にした薔薇。それが描出されているのだ。エミリーへ薔薇を贈るという意味合いだと、鮮烈さは消える。私は、日本で最初に訳したであろう、瀧口直太郎訳のタイトルに、この作品を象徴するような凄さがある、と感じる。」
北方謙三の文も、それだけで香気ある文学作品のようだ。
原文より抜粋。「A Rose for Emily」
「Alive, Miss Emily had been a tradition, a duty, and a care; a sort of hereditary obligation upon the town . . . 」
「Then we noticed that in the second pillow was the indentation of a head. One of us lifted something from it, and leaning forward, that faint and invisible dust dry and acrid in the nostrils, we saw a long strand of iron-gray hair.」
「新潮世界文学」は作家別に編んであるのだが、「集英社ギャラリー『世界の文学』」はなんと、「国別」なのである。
うち、『アメリカ I』はメルヴィル、ポー、ホーソーン、マーク・トウェイン、ヘンリー・ジェイムズ、
『アメリカ II』はフィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、フィリップ・ロス、アメリカ短編集 、『アメリカ III』はソール・ベロー、ボールドウィン、ジョン・バースといった作家陣。
集英社のほうがエンタメ系の出版社だからかなあ。
まあ「ヘミングウェイを読むつもりで他の作家も読んだら、案外面白かった」というのもアリ、だろうしね。
三冊に各作家の写真が掲載されている。ほぼ全員白人なのであるが、ジェームズ・ボールドウィンだけが黒人である。
『アメリカ III』を借りて、真っ先にボールドウィンから読んだ。
フォークナーは白人の立場から黒人のことを書いたが、ミシシッピなどの南部であること、時代が少し前のことであるからか、黒人の置かれた状況もボールドウィンが書くニューヨークとは、違う。
公民権運動に熱心(にならざるを得なかったのだろうが)だったこともあってか、晩年は寡作だったようだ。
by stefanlily
| 2022-02-02 17:07
| 文学、books(海外)
|
Comments(0)